映画の会の「映画監督」

映画における作家とはなんだ、というのを論じるのがAuthor Theory、作家論あるいは作家理論です。和訳ではこれに作家主義という言葉が用いられているようですが、なぜそういう呼び方になっているのか詳しい経緯は知りません。ここでは便宜上「作家理論」と呼ぶことにします。

映画の会の目標の一つは、映画監督を「真の映画作家」とよべるようにすることです。しかしながらそれは、長年論じられてきたような映画における独善的な「作家」の在り方とは一線を画すものです。そのためには、そもそも作家性とは何かという基本的な話から始めなければ行けません。しかしここでは、端的に、できる限り短く、話をまとめます。

西洋かぶれと作家性

作家性や作家理論という言葉は、キリスト世界における個人主義と深い関わりがあります。難しい話ではありません。芸術(Art)には次の条件があります。

芸術は個人によって生み出される

です。個人とは”individual”であり、それは”(div)ine(神)”を内包しています。さしずめ、創造は神の為せる業であり、神は人間個人の中に宿るもので、芸術などという産物は神(個人)によってしか生み出せないと言っているかのようです。その反証として、例えば次のようなものはアート哲学においては芸術とは認められません。

  • 民族による工芸品。トーテムポール
  • その他、特定の個人の創作とは認められないもの全部。全部。文字通り全部。

ところで、映画は複数の人々によって作られます。映画監督だけではありません。カメラマン、美術はもちろんのこと、俳優、編集、音楽家など、総合芸術と言われるように多くの”アート”が集結して一つの作品を仕上げていきます。そんな中、どうして映画監督だけが映画の「作家」、芸術家と見なされるのでしょうか。いや、というか、映画は芸術ではないと言う人もいます。さっきの芸術哲学でいうと明らかに個人の創造物ではないからです。だから、それに対抗する形で論じられるのが作家理論というわけです。映画は映画監督個人の創作物なのだという主張です。だから芸術なんだよと。

この時点で、作家理論という言葉がいかに西洋かぶれしているかが分かります。私たち日本人のほとんどはキリスト教徒ではありません。夏目漱石が聞いたらブチ切れます。我々日本人の古来からの神に関する考え方は、八百万の神々、すべてのものに神が宿るというあれです。とするなら、何人で徒党を組んで創作しようがアートはアートですよね。犬や猫が絵を書いても芸術です。映画はまぎれもない芸術です。

神性が個人に宿ろうが万物に宿ろうが、芸術作品は世界に溢れています。作家理論は要は、映画は芸術ではないとする主張への学術的反論が端緒ですから、文献を読み漁ればいろいろな論者が監督に作家性を認める際の条件を提示しています。一貫性があるかとか、その作品が時代背景を如実に表しているかとかです。しかし、実は、重要な問題はそこにはありません。映画監督の作家性に疑問符がつくケースというのは、多くの場合、監督が映画作りのほんの一部分にしか関与しないことがあるからです。

 

脚本家が”映画作家”だった時代もあった、が

映画において脚本はとても重要と言われます。物語映画においてはその通りだと言えます。映画は誰の「作品」かと考える時、脚本家にその作家性を見出した時代もありました。いい映画がいい映画たる理由は脚本が最大の要因だと信じたことからです。同じような理由で出演するスターにも、あるいはプロデューサーにも作家性を見出すこともありました。その映画の一番の貢献者は誰か、その人こそが映画の作家であるという理屈です。しかし、120年余の映画の歴史を経て、映画の作家性は監督に寄ることに固まってしまいました。今は、監督が映画の唯一の作家です。

 

映画監督は映画作家たりえるか

映画監督が映画の作家であることは始めから決まっているが、果たして、彼らはその栄誉に見合うだけの仕事をしているのか? 周囲の疑いの目はそこかしこに溢れています。過去の映画監督たちの名誉に乗っかる形で、多くの人が映画監督を名乗り、作家性を奢った結果、その言葉自体に価値がなくなっていく。

大笑映画の会では、映画とは何かの科学的な定義を基に、映画監督が為すべき仕事もまた定義しています。まずは映画の定義について(映画制作基礎序章、後編より)。

映画とは、一定の時間の中で、シネマトグラフィー(撮影照明)、編集、ミゾンセン、音の4つのスタイルによって表現される芸術である -David Bordwell

4つのスタイルはそれぞれ、撮影・照明は視覚言語、編集は編集言語、ミゾンセンは美術言語、そして音は音声言語をつかさどります。基本的な演出はこれらの言語を駆使して行われるため、監督はそれぞれのスタイルへの深い造詣が不可欠です。さらにこれらは互いに影響しあって一つの映画言語へと昇華され、感覚や感情といった人間のコアな部分をいかに刺激し動かすか、といった本来の演出へとつながっていきます。

大笑映画の会において、監督志望者は次の条件を満たす必要があります。

大笑映画塾において「映画制作基礎」を終え、「応用」のコースをどれか一つ履修し、さらに「演出」を履修済または学習中であること。会の理念、根幹となる演出技法を学び(4つのスタイル)、それを映画に投影できること。

言い換えれば、素晴らしい脚本を自分で書きました。映画を撮影して編集しました、という行為自体に作家性は認められません。脚本についてはいわゆる文学であり、映画ではないため、そもそも芸術形態が違います。いい脚本といい映画には相関関係は実はありません。良い脚本がいい映画になることはほとんどなく、逆にいい映画の脚本はいい脚本であるとみなされる例は多数あります。それは映画脚本が一つの芸術として自立していない理由でもあります。映画脚本は、戯曲などと違い、文学作品としての地位すら確立していません。脚本ありきで稚拙な4つのスタイルを通して作られる映画は、素人映画そのものです。

映画は、撮影や編集、音、ミゾンセンの全てに、なんらかの秀でた造詣を認められる必要があります。特に、映画監督がフィルムメーカーとして絶大な力を行使できる撮影・照明、編集、そして役者のブロッキング(ミゾンセンの一種)などは、演出家としてまず専心する最初の分野だと言えるでしょう。どうしてここでMSにしたのですか。なぜCU、ここでリフレーミングしなかった理由は? どうしてここで切ったのですか。なぜ映すべきショットを採用していないのですか。この視覚言語を選択した理由はなんですか。単にカメラの録画ボタンを押した(押させた)だけですか。なぜカットをするのかの基本的な意味について語ってくれますか。いえいえ、これらは宗教の話ではありません。和製のアートシネマ界隈でいつしか誤って理解され、受け売りされてきた「映画とは〇〇だ」、などといった根性論や個人崇拝とは冷たい距離を置くものです。

監督は、先述の上記の4つのスタイルを意図的にコントロールできて初めて、映画作家たりえます。映画の会の目標の一つは、映画監督を「真の映画作家」とよべるようにすることであり、そのような作家を育成することでもあります。そして、この4つのスタイルそれぞれのクオリティを高めるのは、並大抵の業ではありません。大笑映画の会は、この大阪の地で参加者たちと共に歩み、しかと未来を見つめながら、一歩一歩前に進んでいきます。

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